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【会員コラム】間忠雄(13)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために —なぜキリスト教的反出生主義なのか—



寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

研究会員


1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


無生殖主義の基本公理は明確で力強い。

それは、「苦痛はあってはならない」というものである。

この公理によれば、苦感能力を持つ存在を直接的にも間接的にも産み出す一切の行為が、道徳的に間違ったものとして認定されることになる。


しかもその上それは、公理としての自明性に疑いの余地がない。

これを否定するならば一切の倫理は解体されてしまうであろう。


無生殖主義がこの基本公理に忠実である限り、従来の反出生主義の立場を包括しつつ、かつ必然的にヴィーガニズムを並立することになる。

しかも、安楽死が苦痛を終わらせる手段として人々の選択判断を勝ち得たとき、無生殖主義はにわかに、個人の死ぬ権利を認める安楽死主義へと接近することにもなる。


ヴィーガニズムや安楽死主義が反出生主義とは独立したものでありながら、人々に訴えかけるための公理の自明性のゆえに、無生殖主義がこうした包括性や親和性をもつことは、人間の出生の停止を求める倫理的反出生主義にとって問題はないのであろうか。


安楽死主義への接近が示すのは、それが「人間の死」への誘惑に対する防御力において著しく不足していることである。


ひとりの人間の「死」について明確な観点を持つことは、「苦痛」のようには決して自明にはいかないだろう。

むしろ「死」もまた「苦痛」と同様に、「あってはならない」ものではないだろうか?

これは決して自明なことではない。


倫理的反出生主義の基本公理を「死もまたあってはならない」とすると、それは安楽死主義と袂を分かち、自明性を放棄し、より一層困難な問題を抱えることになる。

それは現実的に不可能ではないか、ということである。


しかしこの実現可能性の問題については、無生殖主義についても完全に免れているわけではない。

個人的な実践は可能であるとしても、人間全体、いわんや動物全体で実践することはほとんど不可能ではないだろうか。

無生殖主義にせよ、それとは異なる公理をも基本にもつ反出生主義にせよ、およそ反出生主義であるところの実践的命題、「出生は停止すべきである」という主張に耳を貸さない立場の人々は、必然的に「苦痛や死はなくならない」という公理を自明のこととして立っているのである。

そしてそれが個人の身に重大な影響を及ぼさない限り、彼らが「出生の停止」に共感することは難しいところに、反出生主義が決して大勢を占めない理由があるのだろう。

「苦痛はあってはならない」

「死もまたあってはならない」

「にもかかわらず、苦痛も死もなくならない」

という3つの命題が並立しているところに、反出生主義も、それに反対する人々も着地点を見出すならば、出生の停止もヴィーガニズムの実践も、そしてもちろん安楽死の選択も、結局は個人の裁量に委ねられるよりほかはない。

論理的には矛盾するはずの3番目の留保がある限りにおいて、人々は先の2つの自明性を承認するのである。


しかし一方で、確かに実現可能性は倫理的規範の是非を決定する要素ではない。

殺人や窃盗はおそらくなくならないと思われるが、それにもかかわらずそれはあってはならないことである。


それでは無生殖主義の目標とは、苦痛を完全になくすことではなく、単に、生殖が道徳的に間違っていることを全世界が承認することなのであろうか。

それだけでも決して意味のないことではないだろう。

しかし問題は、人々が無生殖主義の公理の自明性をよそに、「にもかかわらず苦痛も死もなくならない」という論理的には本来矛盾するはずの第3の公理を採用して、一向にその実践的主張に耳を貸さない状態が続くならば、「理想は間違っていないが、現実はほど遠い」、「おそらく現実は変わらないだろう」

という「あきらめ」に慣れて、無生殖主義もまた個人的実践の域にとどまることを今後必然的に免れないのではないだろうか。


それゆえ、人間の歴史上、現実の手ごわさに抗して、現実の変革を追い求め続けた人々の原動力に、歴史の検証に耐える形のものであれ、あるいは時代とともに消えゆく形のものであれ、「宗教的な情熱」というものがあったことを学ぶことは、今後のわれわれの倫理的反出生主義の活動にとっても決して無意味なことではないと思われる。

もちろんその際、「宗教的な情熱」が人間性を著しく後退させ、甚だしくも破壊してしまったケースからもわれわれは学ばなければならないだろう。


その上で、現実の手ごわさからくる「あきらめ」に抗して、苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるという目標を追求し続けるならば、公理の自明性をいったん手放して、苦痛はもちろん「死もまたあってはならない」という公理から出発することを提案したいのである。

苦痛と死の存在を容認しないこの公理は、第3の公理を許容することはできない。

それはあえて実現不可能性を引き受けて立つために、宗教的な基盤を求めるということである。

これこそがすなわち、「キリスト教的反出生主義」成立の所以である。


ここではもはや公理の自明性は問題ではない。

むしろ、歴史的教会的キリスト教がいったい何を信じているのか最大の問題となる。

しかしそれは万人の納得のいくものでは到底ない、というものでもない。

冷静に、公平に、歴史的教会的キリスト教信仰の内容を検討すれば、それが「人間の救われること」であることが万人に知られるからである。

しかもそれは、新興宗教が約束するような現実離れした人々の幸福の実現でもなければ、異次元の秘境に至るための難行苦行でもない。

それはただ、われわれをいたって人間らしくするものである。

歴史上のひとりの人格に対するわれわれ一人ひとりの自らの人格としての自由な応答にのみ基礎を持

つところの信仰こそが、われわれを人間らしくする。


さて、「死もまたあってはならない」という公理は、人間存在がいったい何であるかという人間観、死生観であり、キリスト教的人間学の切り離せない一部である。

人間の救われることが、異次元の秘境に到達することではなくして、文字通り、病が癒され、悲しみが慰められ、空腹が満たされ、分断と対立が乗り越えられるということであることを、新約聖書は、とりわけ福音書がそのことを物語っている。

そのことが繰り返し語られたうえでなおも、いや、それだけではない、「死もまたあってはならない」という。

この、人間の救われることに希望と確信を抱いた人々が歴史上存在し続けたからこそ、現実の不可能性から来るあきらめに抗して、かれらは現実を変えることができたのである。

それは、人間の内なる理性と良心の善性に根拠を持つのではなく、人間の外に、歴史上に、われわれと出会われたただひとりの人格とその言葉にのみ、根拠を持つ希望である。


社会主義の実験や宗教的装いを帯びた統治体制と同様に、倫理的反出生主義の政治的社会的運動にも躓きの可能性は絶えずつきまとっている。

人間自身の努力と善意によってではなく、ただ救済者の意思決定によってのみ人間は救われる、というキリスト教的救済理解は、人間自身のあらゆる努力と善意を相対化するだろう。

何が何でも実現しなければならない、ではなく、こういう方法があるがどうだろうか、という態度にわれわれを落ち着かせる。

反対者の意見にも耳を傾け、自らの主張を修正する余裕をそれは産み出すことができる。


キリスト教的反出生主義は、人間の救われることの一部としての「人間の苦痛と死の歴史的終焉」のために、「出生の停止」を求めるものである。

目標達成の過程で、個人の自発的停止のみならず、政治的主導による互助的な停止をも求めるだろう。

その際、権力の行使には細心の注意を払うべきことが求められる。

その上で、それがいつまでたっても人間には実現不可能であるとしても、決して失望することはない。

キリスト教的な基盤のあるところではつねに、人間の救われること、すなわち罪と死とあらゆる苦しみからの人間の救いは確信されているからである。


キリスト教的反出生主義の公理は、自明性をいったん保留にして、差し当たり「人間とは罪と死と苦痛から救われるべき存在である」という人間自身の自己理解から出発し、「人間の自己と他者の苦痛の終焉を人間共同の最優先課題とする」ところに「出生の停止」の論理的必然性を見出す方向で構成していくことを検討したい。

そして、それが万人にとって納得のいく自明性を獲得できるように繰り返し再提示することを今後の自らの課題とするであろう。



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