top of page
間忠雄|Tadao Hazama
脚本
その他
プロフィール
登録日: 2024年9月2日
記事 (14)
2026年6月23日 ∙ 8 分
【会員コラム】間忠雄(14)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために(14) —死もまたあってはならない—
「苦痛はあってはならない」。
けれども「生まれた以上苦痛は避けられない」のだから、「産むべきではない」。
「死もまたあってはならない」。
けれども「生まれた以上死は避けられない」のだから、「産むべきではない」。
「生まれた以上苦痛は避けられない」のだから生まれてしまった以上せめて、「自己と他者の苦痛を最小化する生き方」を追求することが、人生の価値ある目標となるのではないか。
いやむしろ、人間の倫理的共同の責任として、各個人においてのみならず、政治と社会の最優先の課題となるのではないか。
しかし、「苦痛」とは別にもうひとつの「死」についてはどうだろうか。
「死」に伴う「苦痛」の軽減はある程度可能であるとしても、「死」そのものを軽減することはできない。
苦痛の範疇にすべてを回収できない死の実体は人間の経験領域を超えた形而上学的意味を帯びている。
「死」についての明確な考え方を持つことはすでにひとつの信仰の領域である。
既成宗教の死生観を受け入れられない場合、ひとはおよそ以下の2通りの考え方の間を逡巡することになるのではないか。
① 死ねば生物個
139
0
2026年5月7日 ∙ 7 分
【会員コラム】間忠雄(13)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために —なぜキリスト教的反出生主義なのか—
無生殖主義の基本公理は明確で力強い。
それは、「苦痛はあってはならない」というものである。
この公理によれば、苦感能力を持つ存在を直接的にも間接的にも産み出す一切の行為が、道徳的に間違ったものとして認定されることになる。
しかもその上それは、公理としての自明性に疑いの余地がない。
これを否定するならば一切の倫理は解体されてしまうであろう。
無生殖主義がこの基本公理に忠実である限り、従来の反出生主義の立場を包括しつつ、かつ必然的にヴィーガニズムを並立することになる。
しかも、安楽死が苦痛を終わらせる手段として人々の選択判断を勝ち得たとき、無生殖主義はにわかに、個人の死ぬ権利を認める安楽死主義へと接近することにもなる。
ヴィーガニズムや安楽死主義が反出生主義とは独立したものでありながら、人々に訴えかけるための公理の自明性のゆえに、無生殖主義がこうした包括性や親和性をもつことは、人間の出生の停止を求める倫理的反出生主義にとって問題はないのであろうか。
安楽死主義への接近が示すのは、それが「人間の死」への誘惑に対する防御力において著しく不足していることである。
154
0
2026年3月10日 ∙ 8 分
【会員コラム】間忠雄(12)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~キリスト教的反出生主義を巡る対話②~
〔M氏の指摘その2〕
反出生主義は、この世界に産み落とされる赤ん坊を、まるで拷問部屋にほうりこまれた囚人のようにみています。
このような視点は、ある意味で正しいと思いますが、それだけでこの世界が語り尽くせるわけではないと思います。
「拷問部屋としての世界」という認識への執拗な固着において反出生主義は、キルケゴールのいわゆる「可能性の絶望」のなかにあります。
……本当の意味で欠けているものは、自分の自己の内に存する必然的なるもの(自分自身の限界とも呼ばるべきもの)のもとに頭をさげるところの服従の力である。それ故に不幸なことはそのような人間がこの世の中で何にもならなかったということではない、―否、彼が自己自身に(彼がそれである自己が全く特定の或る物でありしたがって必然的なるものであるということに)着目しなかったことが不幸なのである。彼は自分の自己を空想的に可能性の鏡のなかに映して見ることによって、自己自身を喪失したのである。
(キルケゴール『死に至る病』岩波文庫p70)
反出生主義がキルケゴールのいう「可能性の絶望」に該当するのは、自然の営みの帰結としての出産・出生
216
0
bottom of page
