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間忠雄|Tadao Hazama

間忠雄|Tadao Hazama

脚本
その他

プロフィール

登録日: 2024年9月2日

記事 (11)

2025年8月24日10
【会員コラム】間忠雄(11)倫理的反出生主義の普及を願って(11)~キリスト教的反出生主義を巡る対話~
これまでのコラムの内容に対してキリスト教信仰を同じくするM氏から以下のような指摘を頂いたので、彼の同意を得てさらなる応答をここに提示したいと思う。 彼の倫理的反出生主義への批判と評価は、旧約聖書(ユダヤ教)とキルケゴールそれぞれを論拠とするものなので、2回に分けて反論ないし自説の修正を試みたいと思う。 〔M氏の指摘その1〕旧約聖書・ユダヤ教と倫理的反出生主義 倫理的反出生主義が、人間を苦痛・苦悩から救済することを最大かつ唯一の目標としていることは認めるとしても、旧約聖書・ユダヤ教(『旧約聖書』から知られるユダヤ教のことをこのように呼ぶことにする)もまたそのような課題を知らないわけではないし、ましてや旧約聖書・ユダヤ教を出生主義と断定することは誤りである。 君の標榜するキリスト教的反出生主義は、次の問いにこたえる必要がある。 「反出生主義は、意図するとせざるとにかかわらず、論理的・必然的に、創造の否定へと行き着かないか?」 旧約聖書・ユダヤ教は、創造否定、創造に対する反抗、あるいは君の言葉を借りれば「手ごわい現実」を十分に知っていた。 そのことは、創世記の次

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2025年8月6日8
【会員コラム】間忠雄(10)倫理的反出生主義の普及を願って(10)~敗戦80年を迎えて~
ひとは誰もが不可避的に被害者にもなり得るしまた加害者にもなり得るという現実の認識は、倫理的反出生主義の主張を支持する重大な要素の1つである。 たとえ自分がいま、被害者・加害者のいずれになることからも免れていたとしても、その場合他の誰かが代わりにそうなっているような現実を認識することは、確かにわれわれが出生の停止を求めるべき強力な根拠の1つである。 被害者になることを自ら選ぶ人はいないのではあるけれども、加害者になる為には自ら選んでそうする面があるだけではなく、複合的に外から強いられてそうなる面がある。 この被害・加害の不可避的現実を、国家的歴史的規模において体現しているのが、ちょうどいまのイスラエルである。 いまから80年前にその誇大妄想的な野望を砕かれた同盟諸国は、自らの意志において加害者となる道を選び取り、その当然の報いとして被害者とも成るべくして成り果てたのであるが、むしろいまわれわれが目にするところのものは、被害者のすべての苦痛を知っていたにもかかわらず隣国のガザの人びとに、自分たちが被ったのとまさにちょうど同じ目を遭わせるほどの加害者と成り果てた、あのイスラエ

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2025年7月28日6
【会員コラム】間忠雄(9)倫理的反出生主義の普及を願って(9)~倫理的反出生主義のプロパガンダ~
「プロパガンダ」という言葉がある。 一般に「宣伝・広告」という意味を持つ言葉であるが、語源は1622年にカトリック教会が設立した「布教聖省」なるものの呼称にこの語が用いられ、ラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)に由来するという(ウィキペディアより)。 これはキリスト教における福音宣教が、新約聖書福音書における「種まきの譬え」(マタイ・マルコ・ルカ)にそのイメージを負っていることを示す一例なのであるが、しかしその後の歴史においてとりわけ「政治的なプロパガンダ」という用いられ方をする場合、それは一種の扇動的な要素を持ち、知性的であるよりも情緒や激情に訴えかける宣伝効果として、一般大衆に向けて重大な影響力を及ぼす作用として語られるようになった。宗教的な宣伝に始まり、商業的な広告、政治的なプロパガンダにわれわれの生きる社会は事欠かないのであるが、確かにそれらは否定的な意味だけを持つのではない。 たとえば商業的な広告の多くは消費者が必要な商品やサービスを手に入れることに役立っている。 宗教と政治の自己宣伝は真に人々に福利厚生をもたらすために、歴史的あるいは公共的な検証に耐

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