top of page
aapj_logo_002_003_japanese english.png
間忠雄|Tadao Hazama

間忠雄|Tadao Hazama

脚本
その他

プロフィール

登録日: 2024年9月2日

記事 (12)

2026年3月10日8
【会員コラム】間忠雄(12)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~キリスト教的反出生主義を巡る対話②~
〔M氏の指摘その2〕 反出生主義は、この世界に産み落とされる赤ん坊を、まるで拷問部屋にほうりこまれた囚人のようにみています。 このような視点は、ある意味で正しいと思いますが、それだけでこの世界が語り尽くせるわけではないと思います。 「拷問部屋としての世界」という認識への執拗な固着において反出生主義は、キルケゴールのいわゆる「可能性の絶望」のなかにあります。 ……本当の意味で欠けているものは、自分の自己の内に存する必然的なるもの(自分自身の限界とも呼ばるべきもの)のもとに頭をさげるところの服従の力である。それ故に不幸なことはそのような人間がこの世の中で何にもならなかったということではない、―否、彼が自己自身に(彼がそれである自己が全く特定の或る物でありしたがって必然的なるものであるということに)着目しなかったことが不幸なのである。彼は自分の自己を空想的に可能性の鏡のなかに映して見ることによって、自己自身を喪失したのである。 (キルケゴール『死に至る病』岩波文庫p70) 反出生主義がキルケゴールのいう「可能性の絶望」に該当するのは、自然の営みの帰結としての出産・出生

163
0
2025年8月24日10
【会員コラム】間忠雄(11)倫理的反出生主義の普及を願って(11)~キリスト教的反出生主義を巡る対話~
これまでのコラムの内容に対してキリスト教信仰を同じくするM氏から以下のような指摘を頂いたので、彼の同意を得てさらなる応答をここに提示したいと思う。 彼の倫理的反出生主義への批判と評価は、旧約聖書(ユダヤ教)とキルケゴールそれぞれを論拠とするものなので、2回に分けて反論ないし自説の修正を試みたいと思う。 〔M氏の指摘その1〕旧約聖書・ユダヤ教と倫理的反出生主義 倫理的反出生主義が、人間を苦痛・苦悩から救済することを最大かつ唯一の目標としていることは認めるとしても、旧約聖書・ユダヤ教(『旧約聖書』から知られるユダヤ教のことをこのように呼ぶことにする)もまたそのような課題を知らないわけではないし、ましてや旧約聖書・ユダヤ教を出生主義と断定することは誤りである。 君の標榜するキリスト教的反出生主義は、次の問いにこたえる必要がある。 「反出生主義は、意図するとせざるとにかかわらず、論理的・必然的に、創造の否定へと行き着かないか?」 旧約聖書・ユダヤ教は、創造否定、創造に対する反抗、あるいは君の言葉を借りれば「手ごわい現実」を十分に知っていた。 そのことは、創世記の次

343
0
2025年8月6日8
【会員コラム】間忠雄(10)倫理的反出生主義の普及を願って(10)~敗戦80年を迎えて~
ひとは誰もが不可避的に被害者にもなり得るしまた加害者にもなり得るという現実の認識は、倫理的反出生主義の主張を支持する重大な要素の1つである。 たとえ自分がいま、被害者・加害者のいずれになることからも免れていたとしても、その場合他の誰かが代わりにそうなっているような現実を認識することは、確かにわれわれが出生の停止を求めるべき強力な根拠の1つである。 被害者になることを自ら選ぶ人はいないのではあるけれども、加害者になる為には自ら選んでそうする面があるだけではなく、複合的に外から強いられてそうなる面がある。 この被害・加害の不可避的現実を、国家的歴史的規模において体現しているのが、ちょうどいまのイスラエルである。 いまから80年前にその誇大妄想的な野望を砕かれた同盟諸国は、自らの意志において加害者となる道を選び取り、その当然の報いとして被害者とも成るべくして成り果てたのであるが、むしろいまわれわれが目にするところのものは、被害者のすべての苦痛を知っていたにもかかわらず隣国のガザの人びとに、自分たちが被ったのとまさにちょうど同じ目を遭わせるほどの加害者と成り果てた、あのイスラエ

200
0
bottom of page