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【会員コラム】間忠雄(11)倫理的反出生主義の普及を願って(11)~キリスト教的反出生主義を巡る対話~



寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

正会員


1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


これまでのコラムの内容に対してキリスト教信仰を同じくするM氏から以下のような指摘を頂いたので、彼の同意を得てさらなる応答をここに提示したいと思う。

彼の倫理的反出生主義への批判と評価は、旧約聖書(ユダヤ教)とキルケゴールそれぞれを論拠とするものなので、2回に分けて反論ないし自説の修正を試みたいと思う。


〔M氏の指摘その1〕旧約聖書・ユダヤ教と倫理的反出生主義

倫理的反出生主義が、人間を苦痛・苦悩から救済することを最大かつ唯一の目標としていることは認めるとしても、旧約聖書・ユダヤ教(『旧約聖書』から知られるユダヤ教のことをこのように呼ぶことにする)もまたそのような課題を知らないわけではないし、ましてや旧約聖書・ユダヤ教を出生主義と断定することは誤りである。

君の標榜するキリスト教的反出生主義は、次の問いにこたえる必要がある。


「反出生主義は、意図するとせざるとにかかわらず、論理的・必然的に、創造の否定へと行き着かないか?」


旧約聖書・ユダヤ教は、創造否定、創造に対する反抗、あるいは君の言葉を借りれば「手ごわい現実」を十分に知っていた。

そのことは、創世記の次の箇所から分かる。


主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」

(創世記6・5-7)


倫理的反出生主義者なら、この創世記の言葉に完全な同意と共感をしめすに違いない。

そして、創世記のこの言葉に次のように付け加えるはずである。

すなわち「それゆえに、われわれは新たな人を地上に生み出してはならないのだ」と。

ところが、旧約聖書・ユダヤ教は別の言葉を付け加えた。

すなわち、「だが、ノアは主の目に適うものであった」(創世記6・8)と。

これは、人物崇拝でも英雄主義でもない(そのような人間をあやまらせる考えに対する歴史的な闘いにおける最大の貢献は旧約聖書・ユダヤ教に帰せられる)。

「主の目に適うもの」がこの世界にはのこされていた、と創世記は語る。

それゆえに、旧約聖書・ユダヤ教は次のように語ることもできた。


災いあれ、父に向って「なぜあなたは子をもうけるのか」と言ったり/母に向かって、「なぜあなたは産みの苦しみをするのか」と言ったりする者に。

(イザヤ45章10節)


主の目に適うものがのこされていれば世界は滅びを免れるというモチーフは、ソドムとゴモラの滅亡物語にもみられ、預言者を経て(歴史的には創世記よりも前か?)、新約聖書(マタイ13・29をみよ)へと流れ込んでいく。


いかにして旧約聖書・ユダヤ教は、反出生主義を――彼らの枠組みの中でのより徹底した形では反創造思想を――克服できたのか?

私の理解では、「神に不可能なことがあろうか」(創世記18・14)という信仰によって、彼らは反創造思想を克服した。

この「神に不可能なことがあろうか」という信仰告白こそ、サルトルやカミュなどの無神論的実存主義者の格好の標的になったものではないか?

君が、聖書と倫理的反出生主義を調和させようとするならば、まず第1に、旧約聖書・ユダヤ教を正しく評価することと、第2に、倫理的反出生主義が聖書よりもむしろ無神論的実存主義のほうに近い場所に立っていることをよく考える必要がある。


〔M氏の指摘その1への応答〕

「反出生主義は、意図するとせざるとにかかわらず、論理的・必然的に、創造の否定へと行き着かないか?」

まずここで言われる「創造の否定」とは、「神などいない」という無神論的な意味での創造信仰の否定だけではなく、「すべてはよかった」(創世記1・31)とされる神の創造について、「いや、造られないほうが良かった」という意味での否定をも含むものとする。

つまり後者は聖書の創造神を認めながらも、それに「反発」あるいは「反抗」という態度を取るのであるからこの意味では、「無神論」ではなく、「反抗的有神論」であるといわなければならない。

実際に後から見るようにサルトルはともかく、カミュは反抗的有神論である。


ここでの問題は、倫理的反出生主義は上述の意味で聖書の創造論を否定するものなのか、ということである。


グノーシス主義的反出生主義であればもちろん「反抗する」か、さもなくば「無神論的否定」を貫くだろう。


確かに反出生主義が歴史的にはグノーシス主義の一部として展開されてきたにせよ、これが倫理的なものであるためには、つまり人間性の擁護であるためには必ずキリスト教信仰の支持を必要としているし、実際に支持を得ることができるというのがこれまでの筆者の持論であった。

つまり倫理的な反出生主義は聖書の創造論を否定しない。

すなわち「無神論」でもなければ、「反抗的有神論」でもないのである。


キリスト教の創造論とユダヤ教の創造論とを取り違えない限り、あるいは人間の意志による「出生」と創造主による無から有への「創造」とが一緒くたにされない限り、倫理としての「出生の停止」はいかなる意味でもキリスト教の創造信仰の「否定」にはならない。

もしもキリスト教とユダヤ教の創造論が全く同一のものであるならば、反出生主義は、たとえそれがいかに倫理的であろうとも「創造への反抗」を避けることはできないだろう。

なぜならユダヤ教の創造信仰においては、「産めよ増えよ、地に満ちよ」(創世記1・28,9・1)とは、字義どおりに解釈するほかないからである。


ところがキリスト教の創造論は、ユダヤ教のそれとは決定的に異なる。

すなわちキリスト教の創造論は旧約聖書の「創世記」からではなくして、新約聖書の「使徒的証言」(ヨハネ伝1章,コロサイ書1・15-17,Ⅰコリント書8・6,黙示録4・11)から出発すべきものだからである(近藤勝彦「キリスト教教義学・上」第Ⅲ部 創造論 第11章 創造者である神 3 創造の聖書的典拠 参照)。

そしてそれによれば、神の創造の目的とは、キリストによる人間救済を通して神が人間によって救済者として崇められることである(「万物はキリストのために創られた」コロサイ書1・16)。

単に神が万物の創造主としてわれわれ人間に認知され崇められることではなく、「キリストにおける」人間の救済者として、「キリストにおいてのみ」われわれ人間が神がだれであるのかを知ることのできる神として、崇められることである。

キリストが神としてわれわれによって崇められること、すなわち人間救済の完成こそが、キリストによる万物創造の目的であるのだ。


確かにキリスト教の救済理解は旧約聖書に決定的に依存しているが、旧約聖書のみでよいのか、と問わなければならない。

旧約聖書正典のみのユダヤ教は、キリスト教とは同一の信仰ではない。

確かに旧約聖書はキリスト教が依存し学び続けなければならない正典である。

しかし旧約聖書だけではキリスト教とは呼べない。

いったい旧約聖書とは、新約聖書によれば、イエス・キリストがいったいだれであるのかを知るためにのみ、与えられているのではなかったか(ヨハネ伝5・39)。

人間イエスと同一でないような神を、つまりイエスを信じないユダヤ人が信じる神を、直接知るために旧約聖書が与えられているのではない。

キリスト教においてはイエスの人間性と一体でないような神など信じることは到底できないのである(三位一体論とキリスト論)。


したがって、倫理的反出生主義は、旧約聖書・ユダヤ教の創造信仰にはあるいは馴染まないかも知れないが、また意図せずに「反抗」しているかも知れないが、キリスト教の創造信仰に対してはいかなる否定の意志をも持ち合わせないし、あるいはそのような意思を自由に手放すことができる。


確かにグノーシス主義的反出生主義はキリスト教の創造論にも激しく反発する。

それは、その「誕生否定」において、キリスト教の創造信仰と相容れない。

キリスト教の創造論がわれわれを「誕生肯定」へと導くことについては次回、〔M氏の指摘その2〕「キルケゴールの実存主義」に対する応答において明確にしよう。

であるから、倫理的反出生主義は「誕生否定」を克服すべきなのである。


一方でキリスト教信仰もまた、人間の意志によらない「新しい出生」(ヨハネ伝3・3-6)を信じる限り、倫理的主張としての「出生の停止」をキリスト教的な創造論「人間はキリストを礼拝するために創られた」、と矛盾なく受け入れることができるであろう。


マタイによる福音書13・29から「主の目に適うもの」が遺り続けるために、毒麦も一緒にはびこらせるべきであるという思想を引き出すならば、それは尖鋭化されたカルビニズム、すなわち「選びの教理」、「すべては神の栄光のために」、という定式を取る限り、歴史的には教会の改革に必要な役割を果たしてきたと言えるのであるが、今日の時代にいったい幾人のキリスト者がそれを選び取ることができるのだろうか。

倫理的反出生主義がキリスト教信仰の必然でないように、「選びの教理」もまた、キリスト教信仰の必然ではないのである。


ユダヤ教への評価についてもいくつか補足しておかなければならない。


「ユダヤ教は出生主義である」というわれわれの評価はそもそもユダヤ教自身の内部で争われるべき問題であった。

たとえばシャンマイ派とヒレル派の論争のように(D・ベネター「生まれて来ないほうがよかったー存在することの害悪についてー」P230)。

最終的にヨブの嘆きを覆して多産の祝福に変えた旧約聖書記者自身が、ユダヤ教は出生主義なのかそれともそうではないのかを結論付けるべきである。

しかし一般的にユダヤ教内部で声が大きいのは「出生主義」であることは間違いない(たとえばH・ヨナス)。

旧約聖書中には出生そのものを肯定している箇所が多くあることもまた一目瞭然であろう。

たとえそれに反対する声が旧約聖書・ユダヤ教自身に内在しているとしても。


バビロン捕囚という歴史的な、それこそてごわい現実の中で、「神に不可能なことがあろうか」(創世記18・14)というユダヤ人に許された神への信頼は、キリスト教会が感謝と敬意をもってユダヤ人から受け継ぐべきイエス・キリストに対する信頼の唯一のモデルである。

キリストに対してふさわしい信頼と従順とは、ユダヤ人の彼らの神に捧げる信頼と従順以外の何ものからも、われわれキリスト者は模倣することはできないのである。


最後にカミュとイワン・カラマーゾフに代表される「反抗的有神論」と倫理的反出生主義の関係についても一言述べておこう。


イワン・カラマーゾフは「反逆」においてこのように言う。


このような地獄のあるところに、どんな調和があるというのだ。僕は赦したい。抱擁したい。だがこれ以上人間が苦しむのはごめんなのだ!

カミュもまた「反抗的人間」において次のように言う。


反抗者は否定するよりも、挑戦する。もともと少なくとも彼は、神を除け者にはしない。ただ神と対等に語るのである。

いずれも現実の不条理に対して神の義を問う神議論的な問いかけであると言ってよい(近藤勝彦「キリスト教弁証学」P78以下参照)。


人間の苦しみを最上級の問題とする点において、反抗的有神論は倫理的反出生主義と立場を同じくするが、倫理的反出生主義は聖書よりもむしろこの反抗的な有神論に近いのであろうか?

否、倫理的反出生主義は、人間の苦しみの「不条理」を打ち伏せることのできる唯一の選択肢がわれわれ人間には許されていることを知っている。

「出生の停止」という、一切の不条理を打ち伏せる選択肢を選び取ることなしに、神に対して抗議の声をあげることに、倫理的反出生主義は決して与することはないだろう。



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