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【会員コラム】間忠雄(12)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~キリスト教的反出生主義を巡る対話②~



寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

研究会員


1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


〔M氏の指摘その2〕


反出生主義は、この世界に産み落とされる赤ん坊を、まるで拷問部屋にほうりこまれた囚人のようにみています。

このような視点は、ある意味で正しいと思いますが、それだけでこの世界が語り尽くせるわけではないと思います。

「拷問部屋としての世界」という認識への執拗な固着において反出生主義は、キルケゴールのいわゆる「可能性の絶望」のなかにあります。


……本当の意味で欠けているものは、自分の自己の内に存する必然的なるもの(自分自身の限界とも呼ばるべきもの)のもとに頭をさげるところの服従の力である。それ故に不幸なことはそのような人間がこの世の中で何にもならなかったということではない、―否、彼が自己自身に(彼がそれである自己が全く特定の或る物でありしたがって必然的なるものであるということに)着目しなかったことが不幸なのである。彼は自分の自己を空想的に可能性の鏡のなかに映して見ることによって、自己自身を喪失したのである。

(キルケゴール『死に至る病』岩波文庫p70)


反出生主義がキルケゴールのいう「可能性の絶望」に該当するのは、自然の営みの帰結としての出産・出生という必然性に対してへりくだることをせず、拷問部屋としての世界という可能性のなかに自己を喪失しているからです。

出産・出生は、人間も動物にすぎない(コヘレト3・19)という厳然たる事実の一面です。

反出生主義が、理性によって出産を停止することが人間にはできると考えているなら、それこそ人間理解において過度に楽観的であると断じなければなりません。

人間にはそのようなこと(=出産・出生の停止)は不可能であるというリアリズムから出発すべきです。


〔M氏の指摘その2に対する応答〕


倫理的反出生主義がキリスト教信仰に支持を求める際に、克服しなければならない課題として、「誕生否定」があることを率直に認めないわけにはいかない。


歴史的教会的キリスト教信仰は、創造された世界を駄作であるとするグノーシス主義と絶えず闘ってきた。

かかるキリスト教信仰は人間存在に対して、彼自身と世界を「神の被造物」として肯定することを教えるものである。

しかし、人間と彼を取り巻く世界の肯定は、単に「神によって創られた」という理由にとどまるものではない。

それが「いかなる神によって創られたのか」が、決定的に重要な問題なのである。


グノーシス主義の神話によれば、デミウルゴスという一段劣った神によって作られたがゆえに、人間の肉体も物質的世界も駄作なのであり、「作られないほうが良かった」。

それゆえグノーシス主義における人間の救済理解とは、彼の霊魂が肉体から解放されることである。

しかしユダヤ・キリスト教の救済理解はどこまでも、人間と世界・宇宙全体の、いわば「霊的かつ身体的な」救済である。


前回すでに述べた通り、キリスト教信仰とユダヤ教信仰の創造肯定の論拠はしかしながら、決して同一のもではない。

いかなる神によって創られたのか、まず両者ともに共通して言えることは、それが人間を救う「救済者」としての神によって創られた、ということである。

創造主である神はまた救済主でもある。この信仰は紛れもなく、キリスト教がユダヤ教から受け継いだ貴重な遺産である。

しかしながら両者は、かかる神が歴史上の一人格そのひとであった、という認識において、決定的に異なっている。


その際ユダヤ人が契約律法だけでなく、預言者を持っていたということは大変貴重なことであった。

イザヤやエレミヤがいなければわれわれ人間は、イエスを神として認識することは決してできなかったであろう。


旧約聖書における「選び」という冷徹な手段によって「神」の何たるかをわれわれ人間に知らしめる神は、取るに足らない弱小の人間存在を、われわれ人間が理解し得る範囲を超えて、しかもわれわれ人間が理解し得る範囲に合わせて、大事になさる神であるということは、ただ、イエスという歴史上の一人格においてのみ、知ることができる事実である。

かかる神によって、かかる神のために、創られたからこそ、この世界は「よい」のであり、人間存在は――たとえ今しばらくはどれほど醜悪な闘争を繰り広げようとも、また(あえて言う、)どれほど惨めな状態に置かれたとしても、肯定できるのである。

むしろそれは、神が誰であるのかを知ることによってのみ、初めて人間自身に可能とされることであると言わなければならない。


それゆえ、倫理的反出生主義がキリスト信仰に支持を求めるために、「人間は生まれてこないほうがよかった」という誕生否定を手放さなければならない。

より正確には、「人間は創られないほうがよかった」という創造否定と袂を分かたなければならない。

そのうえで、キリスト教信仰は、人間の意志による出生がなくても、神は人間を創造されることを信じることができることを思い起こすべきである。


一方で「出生否定」としての出生の停止は、人間の意志によって生まれてくる子供に苦しみを負わせる可能性を確実に絶つ行為であって、創造主なる神の意志に決して反するものではなくむしろ、救済主なる神の意志に沿うものであると、どこまでも主張し続けなければならない。

救済者なる神は、人間が苦しむことを決して放置されない神だからである。

それゆえ、倫理的反出生主義の眼目は「出生否定」にのみある。


M氏の指摘その2に対する応答はしたがって、倫理的反出生主義はいかにして「誕生否定」を、ひいては「創造否定」を手放すことができるのか、というものでなければならないが、しかしこの問題は決して容易な問題ではない。


倫理的反出生主義がこの問題に取り組む際、他者の傷みを知るためには、自己自身痛みを知っていなければならないという事実に注目する必要がある。

様々な苦悩や痛みを全く知らない人間は(そういう人間が果たしているのだろうか?)必然的に他者の傷みに共感することは不可能ではないのか。

もちろん、知っているなら必ずしも共感できるという訳でもない。

――人間はいとも容易に被害者から加害者へと豹変し得ることを、われわれは昨今のイスラエルにおいて目の当たりにしている。


そして、ちょうどあの旧約聖書の義人ヨブのように自己の存在を呪う程に苦しむ人間存在に対して、かれに共感できるためには、自己自身の存在を否定することを知っていなければならないのではないか?


セーレン・キルケゴールは、この、自己の存在(と彼を措定する者)に対する全否定、すなわち絶望、これこそが実は人間全体にとって根源的であり、普遍的な問題であることを見抜いていた。


かれの診断は普遍的にすべての人間にあてはまるのであるから、特に倫理的反出生主義だけが批判されるのではない。

むしろ、倫理的反出生主義が真に倫理的であろうとし、しかもそのうえ歴史的なキリスト教信仰に支持を求めるならば、誕生否定と創造否定を克服するための適切な助言者を見出したことになる。

われわれは、今後も継続してこの哲学者に学ぶ必要があるだろう。


そのうえで、M氏の指摘に対する疑問は、


  1. 「拷問部屋としての世界」という認識への執拗な固着が、創造否定を意味するのであるならば、それは手放さなければならないが、キリスト教信仰に基づく世界の肯定と両立し得る、「手ごわい現実」の認識というものはあるのではないか。

  2. 倫理とはその実現可能性を断定した上で規定・実践されるものだろうか。殺人や窃盗の禁止はその防止が不完全であるにもかかわらず、法によって規定されるべき規範である。完全な予防が不可能であるという経験に基づく認識は、法による規定を妨げる理由にはならない。


ということである。


キリスト教信仰における認識は、歴史的教会的信仰を伴った認識であって、個人的であれ集団的であれ、単に人間の経験に基づく認識にのみ依存するものではない(もちろんそれを無視するものでもない)。

この世界が極めて「よい」という認識と、「深刻な問題を抱えている」という認識は、いずれもキリスト教的にはただ、イエス・キリストの出来事(神学用語では「啓示」という)からのみ出発して正しく理解できることである。

人間の自己と他者の苦しみはただ、十字架上のイエスの苦しみに基づいてのみ、正しい判断が下されるべきである。

その意味では、ヒューマニスティックな倫理的反出生主義が完全に見ていない人間の「罪」の問題が指摘されてよいであろう。

キルケゴールに拠る倫理的反出生主義批判はまさにその点に収斂されるべきである。


しかし、キリストの十字架から見直した世界が、われわれが考える意味でのお花畑の世界であるということは未来永劫決してあり得ない、ということだけは確かなことである。

そこに見出されるのは、自己自身の醜悪な姿と共に、私のために、私に代わって、私とともに、苦しまれるキリストの姿なのである。

この、神の肖像としてのキリストの姿のゆえに、世界は「よい」のであり、わたし自身は未来永劫「存在してよい」のである。

キリストの十字架への固着は、「可能性の絶望」ではなくして、「神の前であえて自己自身であろうとすること」(キルケゴール)である。


人間には出生の停止は不可能であると断じるのではなく、キリスト教的に言えば「神にはすべてが可能である」という信頼をもって、戦争終結や原発廃止へと向けた努力と等しく、われわれ人間の倫理的実践の課題とすべきではないだろうか。

人間救済完成の決定的な時は神の主権に属することである(コヘレト3:1-11)。

キリスト信仰に基づく倫理的な実践とは、「たとえ明日世界が滅びようとも、わたしはきょうリンゴの樹を植える」(M・ルター)というものでなければならない。

すなわち、てごわい現実への認識とともに希望と信頼に満ちたものでなければならない。



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