【会員コラム】間忠雄(10)倫理的反出生主義の普及を願って(10)~敗戦80年を迎えて~
- 間忠雄|Tadao Hazama

- 8月6日
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寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)
会員番号:50
正会員
1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。
れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。
疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。
好きなキャラクターはタンタン。
ひとは誰もが不可避的に被害者にもなり得るしまた加害者にもなり得るという現実の認識は、倫理的反出生主義の主張を支持する重大な要素の1つである。
たとえ自分がいま、被害者・加害者のいずれになることからも免れていたとしても、その場合他の誰かが代わりにそうなっているような現実を認識することは、確かにわれわれが出生の停止を求めるべき強力な根拠の1つである。
被害者になることを自ら選ぶ人はいないのではあるけれども、加害者になる為には自ら選んでそうする面があるだけではなく、複合的に外から強いられてそうなる面がある。
この被害・加害の不可避的現実を、国家的歴史的規模において体現しているのが、ちょうどいまのイスラエルである。
いまから80年前にその誇大妄想的な野望を砕かれた同盟諸国は、自らの意志において加害者となる道を選び取り、その当然の報いとして被害者とも成るべくして成り果てたのであるが、むしろいまわれわれが目にするところのものは、被害者のすべての苦痛を知っていたにもかかわらず隣国のガザの人びとに、自分たちが被ったのとまさにちょうど同じ目を遭わせるほどの加害者と成り果てた、あのイスラエルの姿なのである。
いったいどうしてそうなってしまったのか。
常に被害と加害の関係なくしては存在し得ない人間の現実、それは従来のように加害者の責任を厳しく追及するだけでは一向に改善される事のない現実である。
かつて自ら加害者であったことを想起し自らを制御することを何重にも学ばなければ、こうしたおそるべき現実にわれわれ人間は対処することはできないのではないか。
敗戦後80年を迎え、国民規模で加害と被害の現実を想起することは、普遍的な人間性の擁護のために必要なことである。
非人間性の限りを尽くした戦争の記憶の想起と同時にいま、現在直視すべき世界の現実からわれわれの次に踏み出すべき一歩を尋ねるとき、現実の手ごわさとわれわれ人間自らに対する適正な評価なしには、再び同じ過ちを繰り返すのみではないか、という疑念を拭い去ることはできない。
戦争の記憶からわれわれは一体何を学ぶべきなのか。
勝者と敗者の別なく学ぶべきことは、現実の手ごわさに対する認識と同時に、失われた人間性の回復への希望が一体どこにあるのか、その根拠の解明をこそ人類共通の普遍的課題とすべきではないのか。
敗者が負けた原因の解明にのみ全力を注いで、次の戦争では負けないようにすることが重要なのではない。
勝者が自らの正義に高ぶって今後も同じ成功体験を追求することもまた必要なのではない。
むしろ敗者と勝者の別なく戦争が示す現実の手ごわさの前にひとまずは慄くべきであると思われる。
敗者というよりもむしろ加害者は、「いったい我々はなぜこんなことをしてしまったのか」と問うべきであるし、勝者は「いったいなぜ彼らはこんなことができたのか」、また、「こんなことをしたのがわれわれではなくて彼らであったということは、われわれにとって単なる偶然だったのだろうか」、とも問うてみるべきである。
確かにこれらの問いは加害者側に固有の罪責をいささかも曖昧にするものではない。
むしろ殺戮と破壊をなかったことにする、あるいは過小評価しようとする修正主義に抗して、事実起こってしまった出来事を直視し、人間性回復のために必要なあらゆる手を講じることを加害者側みずからに負わせるだろう。
こうした観点からもまた、参戦国それぞれに違った独自の歴史との向き合い方が必要となるのである。
こうした観点からわれわれの日本国については、その敗戦後の歩みは決して十分な過去との向き合いの上に築かれたものであったということはできない。
なぜ無謀な戦いにのめり込んだのか、なぜもっと被害を少なくできるよう早くやめられなかったのか、など、国益の観点から反省することもできるかもしれない。
しかしそれ以上に忘れてはならないことは、道徳的な観点における反省、人間が人間に対して悪魔的に振る舞うことがあり得るという現実をわれわれは如何に食い止めることができるのか、というものでなければならない。
アジア諸国に対する真剣な謝罪と補償は永久にわれわれ日本人の課題であり続ける。
確かに同盟国側が悪で連合国側が善、という単純な図式は現実をあるがままに直視することを大きく妨げる。
加害者になる為には自ら選んでそうする面があるだけではなく、複合的に外から強いられてそうなる面がある。
A・ヒトラーを選んだ前夜には、ドイツ国民はベルサイユ体制の過酷な状況を強いられていた。
徳川幕府の250年の長きにわたる平和主義路線は、アングロサクソン一流のグローバリゼーションによる恫喝的開国要求に誘発された国内の狂信的カルト集団によって止む無く退陣させられた。
確かにわれわれは言い逃れのできない悪事を働いて完膚なきまでに成敗されたのではあるが、このようなことが再び起こらないためにはどうすればよいのか、自らのしてしまったことから来る人間に対する懐疑、現実の手ごわさ、これらを適正に認識し、人間に対する楽観的な見通しを止めて、「悪を回避する」ことだけを至上目標とするような政治的理念を追求すべきであった。
そして政治とはそもそもそういうものであったことを主権者が常に想起できる体制を追求すべきであった。
現実離れした幸福を追求するのが政治の課題なのではない。
最悪を回避することだけが真の政治の課題である。
不可欠最低限を超えるものは一切期待せず、どうしたらあの、かつての戦争のような大惨事を起こさずに済むのか、そうしたことだけをただただ追求すべきである。
現実は思わぬ先でわれわれ人間を陥れようと待ち構えていることをよくよく弁え、被害者の救援と誰かが加害者になることを避けるためにできる限りの手を尽くすことを常に政治と社会の共同の最優先課題とすべきなのである。
敗戦後の日本国の再建には確かにそうした政治的回復が認められる面もある。
民主主義と平和主義、それを保障する憲法にその精神を読み取ることができる。
しかし惜しむらくは、人間性に対する信頼の根拠が全く示されていないことである。
倫理的反出生主義の主張を根拠づける2つの理由、①いかなる個人の苦痛をも許容せず、これを取り除き、予防することは政治の唯一の課題であり権力行使の唯一の目的である、②人間はかくあるべきであるにもかかわらず、同胞に対して悪魔的に振る舞うことがあり得る、のうち、①を明確にするものが敗戦後日本の「基本的人権の尊重」と「平和主義」の理念によく表れているということができるだろう。
しかし②の認識については十分だろうか。
いわゆる「国民主権」や民主主義は、歴史上これまで試されたあらゆる体制の中でせいぜい「マシ」なものである、という認識が欠如しては②の認識と相容れないだろう。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(憲法序文)というのも、人間性に対する信頼の根拠を明確に示しているとはいいがたい。
ただこれだけだと、②の認識を欠如している様にも見える。
われわれがかつての戦争の惨禍を繰り返し想起するのは、まさに②をこそ想起するためなのだ。
戦争という構造が人間を悪魔的にするのは勿論であるが、悪魔的でない人間が戦争を起こすのである。
普段は善良な一家のあるじ、すなわち良き夫であり、良き父でもある人間が、戦争という極限状況に駆り出されると平気で蛮行の限りを尽くすのである。
しかもそれは戦争に限ったことではない。
絶えずニュースに上がる社会問題についても同様である。
戦争はその規模において、人間の非人間性を極大に示しているに過ぎない。
②の認識、「人間は人間に対して悪魔的に振る舞うことができる」また、「人間は誰もが被害者にも加害者にもなり得るし、加害者になることは自らの意志と共に外から強いられる面がある」という認識に立って、①の政治的共通の課題に取り組むことが、過去の歴史の反省に立った時にいつも求められることではないのか。
①の政治的共通の課題に取り組むということは、苦しむ人間存在をもうこれ以上産み出さないことであり、いま苦しんでいる同胞の苦痛の除去を最優先することである。
敗戦後80周年を迎え、われわれ日本の倫理的反出生主義は、かつての戦争の大惨禍といま世界が直面している大惨事とを想起しつつ、「出生の無条件停止」を全世界に向かって改めて発信するものである。



