【会員コラム】間忠雄(9)倫理的反出生主義の普及を願って(9)~倫理的反出生主義のプロパガンダ~
- 間忠雄|Tadao Hazama
- 7月28日
- 読了時間: 6分
寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)
会員番号:50
正会員
1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。
れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。
疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。
好きなキャラクターはタンタン。
「プロパガンダ」という言葉がある。
一般に「宣伝・広告」という意味を持つ言葉であるが、語源は1622年にカトリック教会が設立した「布教聖省」なるものの呼称にこの語が用いられ、ラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)に由来するという(ウィキペディアより)。
これはキリスト教における福音宣教が、新約聖書福音書における「種まきの譬え」(マタイ・マルコ・ルカ)にそのイメージを負っていることを示す一例なのであるが、しかしその後の歴史においてとりわけ「政治的なプロパガンダ」という用いられ方をする場合、それは一種の扇動的な要素を持ち、知性的であるよりも情緒や激情に訴えかける宣伝効果として、一般大衆に向けて重大な影響力を及ぼす作用として語られるようになった。
宗教的な宣伝に始まり、商業的な広告、政治的なプロパガンダにわれわれの生きる社会は事欠かないのであるが、確かにそれらは否定的な意味だけを持つのではない。
たとえば商業的な広告の多くは消費者が必要な商品やサービスを手に入れることに役立っている。
宗教と政治の自己宣伝は真に人々に福利厚生をもたらすために、歴史的あるいは公共的な検証に耐えて来た理念に沿って、現在の状況にふさわしい選択肢を人々に向かって具体的に提示するものであるならば、それらのプロパガンダは適正な役割を果たしているといえるだろう。
ところが、虚偽とまではいわなくとも商業的な誇大広告があるように、宗教的あるいは政治的な誇大広告というものがあるならば、それらがもたらす災いは商業的プロパガンダの比ではない。
広告に惹かれて購入・利用してみたがイメージ通りではないという場合については、それがよほどの悪意や虚偽でない限り、消費者側が許容できることが成熟した経済社会の要件でもある。
というのは、労働によってその対価を得るものは誰であれ、商業的プロパガンダの受益者であるのだから。
しかしながら、真理や正義、公正といった理念を追求するべき宗教、政治(政治の理念は正義と公正である)が意図的にあるいは妥協的に、悪しき意味でのプロパガンダで自己の勢力拡張を図ろうとするならば、その災いには測り知れないものがある。
新興宗教のホームぺージや、独裁体制にある国家の国民向けプロパガンダに共通するものは、あまりにも現実離れした「人びとの幸福ぶり」なのであるが、それはこの宗教で、この指導者の下で、すべては上手くいく、というメッセージにほかならない。
その存続の維持にこうしたプロパガンダを必要としている政治や宗教が人間性を抑圧していることは現代世界の抱えている頭痛の種である。
一方で、成熟した市民社会においては政治的なプロパガンダは冷めた目で見られ、宗教的なプロパガンダも特殊な人間だけが惹きつけられるような、多くの人々にとっては迷惑千万なものとして扱われることが多い。
しかしながら、現実を現実としてあるがままに直視するといういわばプロパガンダの対極にあるリアリズムは、本来極めて政治的なものであり、究極的には宗教本来の専任事項であるはずのものである。
そのような宗教や政治があるがままの現実を見ない、ということは、「泉に水がない」、「森に木がない」、ということと同じくらいあり得ないことなのであるが、それが実際に起こり得るのが現実の手ごわさでもある。
問題は、こうした現実の手ごわさを認識するわれわれ人間も現実の最重要構成員のひとりであるというところにある。
人間が人間に対して悪魔的に振る舞い得る現実、それを問題とし、制御し、予防するのも人間であるのだから、人間について過大でも過少でもない適正な評価が求められるのではないか。
現実と人間についての透徹した理解を欠いては、およそ真理と正義と公正を目的とする政治も宗教も成り立つ余地はない。
倫理的反出生主義は一つの理念であり、それは人間社会の正義と公正に属する極めて政治的な主張を持つ立場である。
苦しむ人間存在をだれ一人見過ごしにはせず、これを人間全体の解決すべき最重要共通課題として理解し、その解決のために不可欠な政策として「出生の無条件停止」を掲げるものである。
それゆえあらゆる政治的運動がそうであるように倫理的反出生主義も独自のプロパガンダをもつ。
そこで問題は、政治的宗教的プロパガンダが陥るところの現実を覆い隠すような誇大広告からいかにして倫理的反出生主義の理想は免れることができるだろうか。
政治的ないし宗教的プロパガンダが本来の目的から逸れて自己目的化するとき、それが災いの種になることをわれわれも参考にすべきではないか。
政治家や政党が国民の生活よりも己の政治生命の維持を至上目標とするような、宗教家や教団が本来宗教が持っているはずの現実と人間の透徹した理解を忘れて世俗的な富や存続の維持を至上目標とするような、そのような場合にそれらの持つプロパガンダは災いの種となるのではないか。
それゆえ倫理的反出生主義は、自らの存続について常に自由であるべきである。
悲願であるところの出生の無条件停止が先送りされ続ける限り、反出生主義の主張に共鳴するものは後を絶たないだろう。
しかし同時にそれが希望を失わないもの、つまり「倫理的」なものであり続けるためには、現実の手ごわさに対する認識と同時に人間性に対する「信頼」がなければならないのではないか。
人間は人間に対して悪魔的に振る舞うことがあり得る現実ではあるけれども、しかし、人間とは本来そのようなものではない、そうあるべきものではないという確信、これこそが倫理的反出生主義が単なる悲観主義としてそのプロパガンダを恐怖一色にもせず、また「これですべてが上手くいく」といったような政治的宗教的プロパガンダの轍を踏まないために必要なことではないだろうか。
人間性に対する信頼は現実の手ごわさによって常に危機に瀕している。
倫理的反出生主義は、現実の手ごわさに抗して人間性を固守するあらゆる立場に同情できるはずである。
また、現実の手ごわさに抗して、それでもなお、人間性への信頼の根拠を提示し続ける存在に希望を託することができるはずである。
現実の手ごわさに対する幾重にも張り巡らされた認識とそれでもなお失われない人間性に対する信頼の根拠をこそ、倫理的反出生主義は自らのプロパガンダのモチーフにすべきなのである。