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【会員コラム】間忠雄(7)倫理的反出生主義の普及を願って ~苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~(7)

  • 執筆者の写真: 間忠雄|Tadao Hazama
    間忠雄|Tadao Hazama
  • 4 日前
  • 読了時間: 6分


寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

正会員


41歳のプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


「出生の停止」を訴える倫理的反出生主義の主張は、①現実世界の抱える人間の苦悩という問題の深刻さの認識と②倫理的存在としての人間の責任とその能力の限界についての理解に基づく、問題解決のための唯一不可欠の解答を提示するものである。

倫理的反出生主義が扱う問題は一言で言えば、「人間の苦しみ」なのであるが、同じ人間の苦しみを問題として取り組んでいながら倫理的反出生主義の示す解答を一顧だにしない立場があるとすれば、それはいったいいかなる理由によるのであろうか。


いうまでもなく倫理的反出生主義は、人間の苦悩を真剣に問題とし、その解決のための努力を惜しまないあらゆる立場と共同する用意がある。

それらの立場に人間の苦悩の問題解決のための確固たる決意がある限り、われわれは倫理的反出生主義からの提案、すなわち「出生の完全な停止」をお勧めしないわけにはいかないのである。


人間の苦しみと真摯に取り組む立場の一例にここでは対話の相手として、「政治哲学」なるものを取り上げたい。


政治の課題は人間的生の質の保証であると思われる(「人間的」ということが生の本質を表すのなら、質という言葉は省いてもよい)。

人間的生を脅かすあらゆる障害の克服こそが、政治的課題のすべてであると言ってよい。

人間的生を脅かすあらゆる障害の中に倫理的反出生主義が唯一の問題とする人間のすべての苦悩が含まれている。

一方でもし、政治哲学が倫理的反出生主義の主張に同意できないとすれば、それはいったいいかなる理由によるのであろうか。


しかしここでは、政治哲学からの次のような問題提起にわれわれ倫理的反出生主義自身はどのように応えることができるのかについて考えてみたい。


 H・アーレントは、デモクラシー以外の概念によってはおそらく理解し得ないと思われる人間の生の一つの価値を、国民国家から追われた人々(displaced persons)の視点から捉え直した。彼らが奪われたのは、「自由への権利」や「思いのままに考える権利」ではなく、「行為への権利」、そして「意見への権利」であった。問題はいわゆる「人権」の剥奪ではない。自らの行為や意見に対する他者の応答の喪失、これが彼らを「政治的な生ける屍」へと追いやったのである。この視点からすれば、人間の尊厳はヒトであるという抽象的・没関係的な身分に宿るものではない。それは、文字どおり人-間の尊厳であり、自らの行為を受け止め自らの言葉を聴き取ってくれる人びとの間に生きる(いわば間人格的な)尊厳である。アーレントが、もし人間の権利と呼ぶべきものがあるとすればという仮定のもとで、「ただ一つの権利」として挙げるものは、「ひとがその行為や意見に基づいて判断されるような枠組みの中に生きることへの権利」である(これは他者の排除ではなく他者の応答によって現実化される権利である)。
 このアーレントの視座からデモクラシーを捉え返せば、その理念は、すべての人びとを対等な政治的存在者(political beings)として処遇することにある、と思われる。ひとり一人を政治的存在者として処遇するとは、その人の行為を行為として、意見を意見として受け止め、それに何らかの仕方で応答を返すことを意味する。行いや言葉の背後に人種、階級、宗教といった集合的な価値や利害を読み取り、一つひとつの行為や意見の意味をそれら集合的価値や利害に還元することではない。

(齋藤純一「政治と複数性」第一章より抜粋)


日本国憲法第11条が保障する基本的人権とは、自由権・平等権・社会権・参政権から成るとされているが、社会的政治的事象に適合する形で提示されたこれらの4つの基本権以前に、人間の根本的理解にまでさかのぼって、それらを根拠づける「人間の生の一つの価値」を提示し、これを保証しようとする試みである、と理解することができる。

ここでは、人間の根本的な生の一つの価値とは、「行為と意見への権利」であるとされている。

すなわち「ひとがその行為や意見に基づいて判断されるような枠組みの中に生きることへの権利」であるという。


「自らの行為を受け止め自らの言葉を聴き取ってくれる人びとの間に生きる(いわば間人格的な)尊厳」と呼ぶべきものを守ることが政治の課題であるとするその人間理解は、キリスト教的人間学における、他者への応答責任を果たす存在としての人間理解と根を一にするものである。


このことは、政治哲学がユダヤ・ヘレニズム的キリスト教文化圏にその起源を有することと決して無縁ではないだろう(H・アーレントがユダヤ人であることもまた偶然の一致ではない)。


さて、政治哲学からのこのような問題提起に最大の賛意を示しつつ、倫理的反出生主義は自らの主張をどのように、この問題提起に織り込ませることができるだろうか。

それには、人々がいかなる行為と意見を持ち得るか、また、それらに対して我々はいかなる行為と意見によって応え得るか、を見据えたものとならなければならないだろう。

その際に明らかになることは、回避すべきこととして「正論」の暴力がある、ということである。


客観的で豊富な資料と学的根拠に基礎づけられた「正論」は、何となくの「個人的意見」を圧倒して封印するのに十分の力を持っている。

現実の政治が「枠組み」である以上、政治的現実もまたその弊害を免れることはできない。

一部の専門家に委ねられた官僚的政治の弊害やあるいは、圧倒的多数決による少数意見の封殺などがある。

しかし、政治哲学はそもそも人間とはいったい何であるのかに立ち返って、人間的生の保証のために、より良い「枠組み」作りの努力を不断に続けていくことを自己の課題としているのである。


倫理的反出生主義はその努力に敬意を惜しまないのであるが、なぜ、それとともに、「出生の停止」のための枠組みを用意しないのかと、問いかける。

出生停止のための枠組み作りは純粋に政治的な課題だからである。


ひとりの人間のいかなる意見と行為をも、何らの応答もなしにやり過ごされることのない世界の実現と、苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなる世界の実現とは同一の目標である。


人間の歴史がいま現在立っているところは、人間的生の保証のための戦いが、応答されない人間の苦しみの認識とその苦しみの克服を人間共同の最優先課題として理解するところにまで達している。

倫理的反出生主義が持っている問題解決のための「秘策」は決して、数によるものであれ、正論によるものであれ、ひとりの人間の意見と行為を封殺する暴力によって達成されるようなことがあってはならない。

政治哲学は何よりもそのことをわれわれに示しているのであるし、しかもそれは、われわれがあくまでも、自らひとりの人間として、出生の停止による人間の苦しみの終焉を、しかも具体的な個人の理性と良心を対象として語りかけ、訴え続けていかなければならないことを示しているのである。



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