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【会員コラム】間忠雄(14)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために(14) —死もまたあってはならない—



寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

研究会員


1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


「苦痛はあってはならない」。

けれども「生まれた以上苦痛は避けられない」のだから、「産むべきではない」。


「死もまたあってはならない」。

けれども「生まれた以上死は避けられない」のだから、「産むべきではない」。


「生まれた以上苦痛は避けられない」のだから生まれてしまった以上せめて、「自己と他者の苦痛を最小化する生き方」を追求することが、人生の価値ある目標となるのではないか。

いやむしろ、人間の倫理的共同の責任として、各個人においてのみならず、政治と社会の最優先の課題となるのではないか。


しかし、「苦痛」とは別にもうひとつの「死」についてはどうだろうか。

「死」に伴う「苦痛」の軽減はある程度可能であるとしても、「死」そのものを軽減することはできない。

苦痛の範疇にすべてを回収できない死の実体は人間の経験領域を超えた形而上学的意味を帯びている。

「死」についての明確な考え方を持つことはすでにひとつの信仰の領域である。


既成宗教の死生観を受け入れられない場合、ひとはおよそ以下の2通りの考え方の間を逡巡することになるのではないか。


① 死ねば生物個体の存在は無に帰する。生まれる以前の状態になる。

この考え方は、生きている者の視点から観ることのできる死のすべてであって、宗教を否定し、考える方法として科学以外の方法を認めないいわば科学信仰ともいうべきものである。

この科学信仰を貫き通すならば、死はそれに伴う苦痛を最小化することによって容易に受け入れられるものとなる。

今後生き続けなければならない苦痛と死の瞬間に直面する最小化された苦痛とを天秤にかけて、後者がより軽いと判断されたとき、死を苦痛からの救済とみなすことは必然的に起こり得る。

科学信仰は安楽死のための技術的進歩と相まって、人間を死への願望へと駆り立てる。


② 死後のことについては誰にも分らない。少なくとも自分は知らない。

死後についての不可知論もまた、未来永劫知ることができないということに固執する限りにおいて一つの信仰であるといえる。

ただし、死についての未知の不安が解消されない点で科学信仰に比べると死への抵抗力が幾分残存している。

近年の反出生主義が人生を「始める価値」と「続ける価値」の区別を設け、後者の価値に可能性を見出したことは、死について不可知論の立場にあることを示している。

個人とその集団の経験領域だけですべて判断できると考える科学信仰では反出生主義が安楽死奨励主義を必然とすることは避けられないが、死についての不可知論は、反出生主義を自殺奨励主義と同一視されることから免れさせている。


生についての不可知論は人間がこれまで経験してきたことのいずれが明日、自分の身に降りかかるのかを全く知らないという意味の経験領域内の不可知論であり、日常的には専ら他者との応答責任における予測不能性にまつわる不可知論である。

自然災害(天災)についての不可知論は非日常的であるのに対し(もしこれが日常的なら反出生主義は、より多くの人々の賛同を勝ち得るはずだ)、人間関係における苦痛(人災)こそは、日常における不可知論の対象である。

他者からの応答はもちろん自己から他者への応答さえも、自ら予知することはできない側面がある。

当然自ら守り、他者に期待してよい応答は礼節であるが、われわれは日常的にその崩壊を経験するのではないか。

自己と他者の関係における一言一句、一挙手一投足が予測不能であり、期待通りにいかない所にこそ、日常的で普遍的な苦痛の多くが占めている。

この、人間関係を巡る生の不可知論についてはあらたに項を設けて考える必要がある。

いま問題は、死の不可知論である。


死の不可知論は、人間がこれまで経験したことのない全く未知の現実があることを承認するものである。

それゆえ人生は、正視に堪えない映画を見続けることになぞらえられ、退席することで被るかもしれないリスクに比べればマシであるという判断もまた十分に成立することになる。

ところが実際に後を絶たない、自ら退席することを選択せざるを得なかった人びとにとっては、現に直面している生き続けることの苦痛があまりにもひどいので、全く未知の可能性のほうがはるかにマシに見えるくらいのものである。

あるいは、もうひとつの科学信仰に一縷の望みを繋いでいるのかも知れない。

自殺を思いとどまらせるためには、彼らが直面している具体的な苦痛を取り除くための社会的政治的な制度を整える必要がある一方で、明確な「死」についての考え方を見直すことが求められるのではないか。

「死」について知らぬ存ぜぬで、果たして自殺願望を思い直すことができるのかどうかが問われなければならない(「死」に対する社会的な共同の予防線を設けておくことの重要性は、小島和男氏の『生まれたくなんかなかったのに―それでも生きるための哲学―』第11章「安楽死は選べないのか」を参照して欲しい)。


ところで、死の不可知論が一つの信仰であると言い切れるのは、歴史的に死について根拠の可能性のあるやり方で、いまひとつの考え方を提示する宗教が現れたからである。

「キリストはよみがえられた」、というキリスト教信仰の原点は、ある特定の歴史的事実としての認識に基づいている。

科学的に復活の可能性を否定できない以上、この歴史的事実としての認識は、肯定・否定いずれの立場をも決断的信仰的態度として二分する、分かれ道に立つひとつの道標となっている。


「イエス・キリストは人間を罪と死から救うために十字架へと向かう生涯の苦しみを負い、死なれ、そしてよみがえられた」、という一方の信仰的態度は、「罪の中に死んではならない存在」として、人間の自己自身と他者を全く新しく理解し直すことを促す。

それゆえにキリスト教倫理の公理系においては、「死もまたあってはならない」のである。


そこで倫理的反出生主義の公理ともなり得るこの、「死もまたあってはならない」について、キリスト教における死(と苦しみ)の理解がいかなるものであるのか、それはおよそ次の通りである。


  • 人間の死は、人間の罪の結果もたらされた「報い」であるとされる。これは苦しみ(災い)についても同様であるが、旧新約聖書においては、個人の罪が彼自身とその共同体に苦しみと死をもたらす一方で、人間全体の普遍的な罪がすでに不可避的に個人を死に定めている現実を伝えている(創世記3: 19,ローマ書5: 12)。つまり、死についてはもちろんであるが、苦しみもまた、犠牲者自身の罪の結果というよりもむしろ、人間全体の普遍的な罪の結果であるということである。それゆえ、罪の結果としての苦痛と死は、決して自己責任・自業自得で済まされていいような問題ではない。

  • 個々の犯罪(=律法違反)は当然個人に苦痛と死をもたらすが、個々の犯罪とは無縁の苦痛と死は、人間全体の普遍的な罪(=原罪)の結果であり、生まれてしまった人間はだれ一人としてそこから免れることはできない。つまり、決して無害ではない死、美化できない死、不自然な死を、すべての人間が死ななければならない。「罪の払う報酬としての死」とは、価値中立的な死ではあり得ない。

  • それゆえに、キリストにおける人間の救いとは、第1に罪から、第2に死から、そして第3にあらゆる苦しみからの救いである。キリストによる救いの完成の日には、「もはや死もなく痛みも悲しみもない」といわれている(黙示録21: 3-4)。

  • しかしもう一方で、キリストが人間の苦しみを苦しみ、人間の死を死なれたことによって、人間の罪の結果としての苦しみと死には積極的な意味が与えられるようになった。新約聖書においては特に使徒パウロがそのことを繰り返し語っている。キリストとともに苦しみ、キリストとともに死ぬことは、キリストとの一体性のゆえに、もはや忌まわしいものではなく、幸いなことであるとさえいわれている。いや、「キリストとの一体性」の秘儀ゆえに、むしろ救いの事実そのものですらある(フィリピ書1: 21,ローマ書6章)。

  • ただし、この信仰的な態度は自己自身の苦しみと死を自ら引き受けるものであって、他者の苦痛と死に対しては正当化あるいは合理化、あるいは美化することなく、むしろ共苦的に連帯することへとわれわれを促すものである。実際のところ、他者の苦しみを「あってはならないもの」と判断し、それを予防し、取り除き、終わらせるための行動へとわれわれ人間を駆り立てる情熱は、この信仰的な態度に基礎を持っている(ルカ伝10: 25-37、コリント後書1: 3-5)。


生まれた以上苦痛も死も避けられない。

しかし、人間の救われることに役立つような苦しみと死があるという。生まれてしまった以上は、そのような苦しみと死を引き受けることが人間を人間らしく生かし、自由にする。

キリスト教信仰によれば、そのような苦しみと死とはただ、キリストとともに苦しみ死ぬことである。


「死もまたあってはならない」ということは、「罪の中に死んではならない」、「死んだままそれで終わりであってはならない」ということである。

「キリストとともに死んだのならキリストとともに生きる」ということが、キリスト教信仰における人間の救われることの筋道である(ローマ書6: 8)。

キリストとともに死ぬということは、キリストの生涯が十字架の死へと向かう生涯であったように、十字架へと向かうキリストに従う生涯を生きることである(マタイ伝16: 24-25)。

この、キリストとともに死ぬ生き方こそが、他者のために、キリストのために精一杯生きることへとわれわれを勇気づけるものである。


(結論)


生まれてしまった以上避けられない人間の苦痛を最小化することは、人間自らの社会的政治的共同の課題である。


生まれてしまった以上避けられない人間の死を人間らしく受け入れることは、人間自らの実存的信仰的共同の課題である。


歴史的教会的なキリスト教信仰における、「復活されたキリスト」への希望こそが、人間共同の普遍的課題の遂行を支持する力となる。



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