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【会員コラム】間忠雄(15)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために(15) —ABEMAの報道を見て(感想)—

寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

研究会員


1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

いのちの党、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


反出生主義特集を扱う Abema News の報道を見て何ともやりきれない気持ちになってしまった。


劇作家の高間響氏、哲学者の小島和男氏、脳科学者の茂木健一郎氏をゲストに迎え、これまでの反出生主義特集の内容を踏まえた上で、反出生主義に対する疑問や批判が次々と小島氏に対してぶつけられていた。



討論の始めに反出生主義を、「人生には苦しみがあるので、生まれてこないほうがよく、産むべきではない。」という主張にまとめたのはよいとしても、「何がきっかけで?」、「ご自身の経験があって?」という司会者の質問に対する、「運よく自分が恵まれていることが(苦しんでいる人に)申し訳ない思いがある」という小島氏の応答を、「そのように感じない。」、「大学教授に何の意味もない。妙な個人的な考え。」などと批判する茂木氏の発言はそもそもの初めからしてよからぬ悪意を醸しだしていた。

——さらに「楽しいことが申し訳ない?」、と畳みかける男性俳優の驚きは、ある意味苦しむ人間存在に対する日本社会全体の無関心を象徴的に表しているようでさえあった。


司会者の質問は、反出生主義という思想に取り組む主体としての実存に関わる問いなのに、その応答を思想そのものと一緒くたにして批判することは果たして正しいことなのだろうか?

この点は司会者がはっきりと茂木氏をただすべきではなかったのか。


さらに、「男性であることは出産について一切のリスクを負わなくてよい」という小島氏の自省を、「女性は大へんと決めつけて女性を代弁する特権意識」と決めつける茂木氏の解釈もまた、終始一貫した悪意によるものである。

どのような考えであれ、悪意によっても善意によっても、いかようにも解釈できる実例を見せつけられた思いがする(小島氏がはじめから友好的に笑顔を示していたことでさえも、思わざるの甚だしい悪意によってねじ曲げられて解釈されてしまった)。


茂木氏もまた大学の教授らしく、番組に臨む前に周到に反出生主義の哲学的な議論を入念に検討されたようであるが、氏の評価によればそれは、「論理的に穴があり」、「苦痛の不在の重視について論理的に一貫せず」、「哲学的に欠点があり過ぎる」。

また「哲学として倫理学を存在論、認識論の前に置く違和感。」、「苦痛がない方がよいという前提は、人間存在を総合的に捉えると矛盾している。喜びもある。」という茂木氏自身の哲学も述べながら、しまいには、「生物学や進化論などと比べると、(反出生主義は)学問としての精緻さに欠ける。稚拙であり幼稚である。」、「ベネターなど大した事なんかない。」とさえいう。

まるでケンカ腰である。


これに対して、論理的にどこに穴があるのか、まだ視聴者に明示されもしないうちに、司会者ももう一人の俳優も小島氏に向かって「穴を埋めよ」と迫るのは、番組構成としてあまりにも滅茶苦茶ではなかったのか。


番組は小島氏に対して「端的に」、「分かりやすく」説明を求めるだけでなく、茂木氏に対しても彼自身の哲学、人間論の概略の説明を求めるべきであったのだ。


全体として著しく公平性を欠く番組構成であったが、ただひとりの女性の参加者が、おそらく反出生主義に対する共鳴の核心部分を述べていたのではなかっただろうか。

いわく、「生まれてよかったと思えるのは恵まれていること。全員がそう思えないのだから、反出生主義は忘れてはならない視点だと思う。」


茂木氏は、友愛精神を掲げる鳩山友紀夫元首相が理事長を務める「東アジア共同体研究所」の理事を引き受けられ、また、かつて日本の貧困問題に取り組み社会と政治を大きく動かした活動家、湯浅誠氏とともに『貧困についてとことん考えてみた』(NHK出版局2012)を、同じく路上生活者支援に精力的に取り組む奥田知志牧師とともに『「助けて」と言える国へ――人と社会を繋ぐ』(集英社新書2013)をそれぞれ著しておられるというから、苦しむ人間の痛みについて決して鈍感なひとではないはずである。


いったいなぜ、小島氏に対して――というよりもむしろ「反出生主義」という思想に対してなのか、茂木氏はこれほどの敵意を抱くのであろうか?

ネット上に見られる「一部の変なモメンタム」のせいか?

氏の「哲学にはもっと重大な問題がある。」という言葉と、「哲学として倫理学を存在論、認識論の前に置く違和感。」という言葉をもっと説明して欲しかったと思う。

しかし茂木氏がいかに考え抜かれた思想を抱いていたとしても、私は小島先生の反出生主義もまた「半真理(half-truth)」であることを疑い得ないのである。


改めて「真理」を巡る人間の探求について、「産みの苦しみ」というものを想起しないわけにはいかない。

哲学ではあまりないものと思っていたが、キリスト教神学の歴史における「神学者の憎悪」(P・メランヒトン)というものはやはり人間の普遍的な問題だったのだと思う。

キリスト教神学思想史においては同じ一つの信仰理解を巡って、頭脳に優れた神学者たちの、古代から現代にいたるまでの、激しく憎しみ合うまでにお互いを中傷し合う尊大な姿勢を垣間見ることができるのである。


そもそもすでに新約聖書においても、初代教会の使徒たちを襲った試練、ユダヤ教からの迫害があった。

いや、むしろキリストご自身が激しい悪意と憎悪、敵意によって処刑されたのではなかったか。

ショーペンハウエルの次の言葉は有益な戒めになる。


「真理は、はじめ馬鹿にされる。次に激しく迫害される。そしてしまいにはまるで当たり前であるかのように受け入れられる。」


思想を巡る人間の構造的な欠陥、すなわち自らと異なる思想、自らの思想に異を唱える思想への隠された敵意、憎悪、悪意というものに自分自身捕らわれていないかを絶えず検証しなければならない。


「思想的寛容」の根拠がいったいどこにあるのか、われわれの倫理的反出生主義もまた試されるだろう。



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