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【会員コラム】間忠雄(16)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために(16)“笑いの内閣「12人の産まない日本人」東京公演直前放送 茂木健一郎VS高間響 反出生主義アベプラ延長戦” を観て自由に考えたこと 

19 分前
読了時間: 6分

寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

研究会員


1983年生まれのプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

いのちの党、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。


反出生主義を巡る Abema 討論の延長戦として高間響氏と茂木健一郎氏の対談を閲覧し、私なりに考えたことを思いつくままに述べてみたい。


まず始めに、茂木氏の「反出生主義には論理的に穴があり過ぎて破綻している」という言説は、昨今の哲学界における議論を踏まえた上での発言ではなくして、一般に知られているところの反出生主義のロジックに対する個人的な印象であることが判明した。


「反対も何も、そもそも俺は反出生主義には興味はないの」、という茂木氏の一言がそれを決定づけている。

しかしそうであるなら、高間氏が指摘する通り、茂木氏は番組の出演を辞退すべきだったのではないか。

しかし茂木氏は「反出生主義の人と付き合いたくない」といいながら、出演したのは「(番組では)どのようなネタが来るのか知らなかった」から、という言い訳をしている。


番組に出て見て初めて反出生主義というものを耳にしたとでもいうのであろうか?

それとも当日の番組のテーマは実際放送が始まるまでゲストとして知れされてはおらず、サプライズだったとでもいうのであろうか。

高間氏が過去の特集の内容をすべて視聴してから番組に臨んだということについて、茂木氏が賛意の拍手を表しているのはいったいどういうことなのだろうか。

茂木氏がはじめから番組のテーマを知っていて、それにもかかわらず顔を出したというのなら、小島氏に対してあまりにも失礼極まる行為である。


一流の学者としての茂木氏の才能はおそらく非の打ちどころがないものなのだろう。

だからここでの教訓は、人間ひとりひとりが生まれながらに限界づけられた才能と人間ひとりひとりが生まれながらに付与された人間性とを区別すべきことである。

そして倫理的反出生主義は学的根拠をあくまで手段と位置付けて、むしろ人間性の擁護と回復を唯一の目的とすべきことである。

才能や認知能力は生まれながらの格差があるのだから、人間の倫理的責任が負うべきものでは一切ない。

人間性、すなわち人格こそは個人が命を懸けても守り抜かなければならないものである。


しかしながら人間性とは単に道徳的なよさのことではない。

道徳性も含めて人間性は、人間存在全体を根本から支える本質、すなわち実体である。

私はここで特定の個人の人間性について非難するつもりなどない。

人間が他の人間の人間性について非難することはできない。

ただ、「人間性」とは、厳密には極めてユダヤ・キリスト教的な人間の自己理解・他者理解のことである、ということだけを、繰り返しになるが言っておきたいのである。

人間性とは、ユダヤ・キリスト教的には「神の肖似性」(創世記1:26-27)のことであり、よりキリスト教的には歴史的人格としてのイエスの人間性そのもの、かれの存在そのもののことである(コロサイ書1:15, へブル書1:3)。


今日宗教などは知の探究の世界とはまったく別物、という理解が一般に行き渡っているが(とりわけ近代以降西洋の学術を取り入れながらその宗教を拒んだ日本において)、茂木氏のいう「日本に決定的に不足する知の足腰の強靭さ」というものは実際のところ、ヘレニズムとヘブライズムの伝統のことを指すのである。

西洋が学術において知の伝統を築き上げてきたことと、ユダヤ教から派生したキリスト教信仰を継承してきたこととは決して無縁なことではない。

ギリシャ発祥のヘレニズムとユダヤ発祥のヘブライズムとは決して同一のものではないが、互いに無関係でもなく、歴史的に両者は知性と人間性とを、それぞれ歩調を合わせつつ担ってきたのである(もちろんわれわれの東洋にもそれに代わる代用品はいろいろあったが、それらが世界史の趨勢となることはなかった)。


人間が他の人間の人間性について非難することができないというのは、ユダヤ・キリスト教的には、すべての人間が自他の人間性をいともたやすく毀損、放棄する存在だからである(人間の罪の問題)。

それゆえ、人間性の擁護と回復を主たる目的とする倫理的反出生主義が人間の現実の手ごわさを認識し、それに抗していくためには、ぜひともキリスト教的な人間理解並びにその救済理解が欠かせないのである。


キリスト教信仰は人間の現実の手ごわさの認識と同時に人間性の擁護と回復の唯一の可能性を提示している。

それは歴史上時代と場所とを限定された一回限りの事実へと集中した認識によると同時に、ひとりの歴史的人格への信頼と服従、忠誠と貞潔、すなわちかれご自身がわれわれに付与するところの信仰による以外にはない。

教会はキリストによるわれわれ人間へのご自身に対する信仰の付与を、かれを信じる人間たちに委ねられた福音の宣教を媒介とする聖霊の業と捉え、仕えてきた。


それは、高間氏の言葉を借りて今日の日本の時代状況に即して表現するならば、キリストからの「やさしさの強要」ともいうべきものである。

個人の尊厳を根本において支える基盤を自ら信じることなしに理解することは極めて困難である。

個人主義と全体主義双方の抱える問題と対立とは究極的には、個人の尊厳と共同体の不可欠性を根本において支える同一のキリスト信仰においてのみ、われわれ人間には克服することが許されている。


倫理的反出生主義にみられる「やさしさの強要」の傾向はいったい何に由来するものであろうか?

キリスト教的人間学の文脈から切り離された「個人の尊厳」の尊重は現実の過酷な試練に耐え得るものではない。

「かけがえのない個人」という人間像は常に人間自身の都合によって覆されていく。

国家や企業が求める人間像ははじめから個人を代替可能な人材・人的資源とみなしている。

出生の停止による人類の絶滅を忌避する立場は、しかしながらなぜ、個人の死の現実と妥協できるのだろうか?

「かけがえのない個人」とはせいぜい親密な親子同士、恋人同士のプライベートでしかも一時的な関係にしか当てはまらないのが実情ではないのか。


いかなる個人の苦痛をも容認できない立場を起点とする倫理的反出生主義は、それゆえ強靭な「個人の尊厳」の尊重を求めている。

「かけがえのない個人」の不確かでない根拠を求めている。


キリスト教的人間学は、この「かけがえのない個人」の根源を、キリストの救済、すなわち「贖罪」に見出している。

キリストがご自身の血をもって買い戻したからこそ、すべての個人は「かけがえのない」存在なのである。


倫理的反出生主義が、人間の苦痛に対して共苦的に連帯し、その救済のためにすべての人に出生の停止を求めるならば、それはこの世の価値観からすれば一方的な「やさしさの強要」であり、疎まれ、憎まれることは当然のことなのかもしれない。


それでもなお、倫理的反出生主義に人間の苦痛からの救済を求める意思があるのなら、いったいどうしてそれが人間に可能であるのかを自ら尋ねなければならないであろう。


苦しむ隣人の傍らを通り過ぎることなく近づいていくためには、人間自身の善意と努力を超えた創造的な力が必要である。『汝も行きてそのごとくにせよ』(ルカ伝10章37節)、という、唯一権威あることばに聴くことが、倫理的反出生主義においても欠くことのできない姿勢となるだろう。




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