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【会員コラム】間忠雄(4)倫理的反出生主義の普及を願って ~苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~(4)

執筆者の写真: 間忠雄|Tadao Hazama間忠雄|Tadao Hazama

更新日:2024年11月5日



 

寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

正会員


41歳のプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。

 

さて、キリスト信仰に基礎づけを求める上で払拭しなければならない倫理的反出生主義に対するいくつかの疑念をここでは検討してみよう。


まず考えられるのは、「苦難」からの人間救済をのみ至上命題とするあまり、倫理的反出生主義は人間の「応答責任」の継続を性急に放棄するきらいはないか、という疑念である。

というのは、キリスト信仰における人間救済の「順序」には、「苦難」と「死」にむしろ積極的な意義が与えられているからである。


キリスト信仰における「人間救済」の理解は常に「人格的」なものである。

すなわちそれは、「キリストと私との関係」に基づく「共なる人間と私との関係」において実現するところの人格的かつ共同体的救済である。

共なる人間との関係なしにキリストによる人間救済に関与することはできない。

そこで、「キリストと私」、「共なる人間と私」とを繋ぐ役割としての「苦難」と「死」が、三位一体的神の救済事業における「経綸」のうちにむしろ積極的な意味をもつことにさえなるのである。

キリスト信仰における人間学は、人間を第1に「罪」から、第2に「死」から、そして最終的には「あらゆる苦しみ」から救われるべき存在として捉えるが、終末の完成までの暫しの間、「死」と「苦しみ」はむしろ人間の救済に役立つように「逆用」されている、とさえ信じ、告白している(ローマ書参照)。

人間は「苦難」と「死」を通して他者への共感力を培い、人間のあらゆる苦難と死、ひいてはその根源にある人間の「罪」からの救済者であるキリストの「苦難と死」を想起し、自らの現実的な「苦難と死」を通してキリストと一体化される、というのである。


そこで、「苦難」を「無化」することを「唯一の至上命題」とする倫理的反出生主義に対して、この、神の人間救済における「順序」と「経綸」を根拠に反対することは明白な誤りである、と断っておかなければならない。

いったい信仰者が『苦難をも誇りとする』ということは、共なる人間の苦難の継続を正当化する理由になってよいのであろうか。

否、むしろ自身の苦難の積極的な意味を見出すことと、他者の苦難を和らげることとは不可分でなければならない。

自ら苦難を負うことなしに他者の苦難を和らげることが出来ないという事実こそ、キリストが身をもって示された人間性の本質的要素だからである。

より高次の救済を盾に他者の苦難を正当化するところに、「宗教原理主義」と「カルト集団」の「倒錯」がある。


すでに生まれてしまった以上は、『苦難をも誇りとする』勇気と喜びがぜひとも欲しいものである。

しかし、共なる人間に対しては苦難を負わせるのではなく、むしろこれを取り除き、予防することを努めるべきであることは明白である。

それゆえ、他者の苦難に対して最大限の同情と配慮を示すことが出来る「キリスト教的反出生主義」なるものが、キリスト信仰における人間救済の「順序」に何ら矛盾することなく成立するのである。


次にもうひとつの批判材料、すなわち倫理的反出生主義もまた「グノーシス主義的」である、という汚名を返上しておくことが適切である。

いったい代々の教会によって異端とされたグノーシス主義とは、現実存在する物質的世界と身体とを否定し、多かれ少なかれそれらを「悪」と断定するところに成立するのであるが、始めに断っておいたように、倫理的反出生主義は、「善悪」については一切言及していないという点に注目されたい。

ただ、「苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなる」ことだけを、これまで試されたことのない「合法的な手段」、すなわち「出生の停止」という合理的かつ良心的方法によって実現させることを至上命題とするだけである。

出生の停止「以後」の世界については、キリスト信仰の有無によって理解は自ずと異なるであろう。


古代からのキリスト信仰によれば人間存在の要件に「出生」なるものの入り込む余地はまったくない。

人間存在の要件とは純粋に、無から有を呼び起こす神の「創造」のみがあるからである。

かつて存在した人間、これから存在するであろう人間は、この創造主のことばによってのみ生きる、と代々の教会は信じ、かつ告白する。

『我は信ず、…身体のよみがえり、とこしえの命を』(使徒信条)。


現実存在する世界と身体とを「悪」と断定するグノーシス主義的な反出生主義なるものも確かに成立するが、出生の停止を人間性の擁護とみなす倫理的反出生主義は、そのようなものと適切に距離を置く。

恣意的な善悪の基準に絡めとられて他者を「断罪」するのではなく、「人間の苦難の終焉」をのみ、唯一の目標としてその手段の正当性への理解を訴え続けてゆくのである。


キリスト信仰の立場から提出される疑念としてその他考えられるのは、「その日その時」すなわち「終末」がいつやって来るのか分からない、それゆえ絶えず「目を覚まして」備える必要があるという聖書的理解に基づいて、人間のプログラムで「終末」を引き出そうとするやり方に倫理的反出生主義の主張が見える点である。


M・ルターの言葉として伝えられている、キリストの人間救済を待ち望む信仰者の終末的な生き方を表す、『たとえ明日、世界が滅びるとしてもわたしは今日、リンゴの木を植える』という言葉がある。

これは、不可避的な「終末」における人間救済の決定権はただ神にのみあって、人間自身は自らの「応答責任」を忠実に果たすところに終末を迎える信仰者としての姿勢があるということを示している。


倫理的反出生主義はこのようなキリスト信仰に基づく救済像を参考に、謙虚に自らの分を吟味することが出来るはずである。

「出生の完全な停止」の実現は、奴隷制度や一夫多妻制の廃止、個々の具体的な戦争・紛争の収束への働きを含め恒久的平和への努力と等しく人間自身の倫理的責任領域に属する課題である。

先のルターの言葉に当てはめると、「リンゴの木を植える」働きに属するのである。


いったい人間の努力と善意によって人間は真に救われることはない、というのがプロテスタント信条の精髄なのであるがそれは決して、キリストの「聖霊」が人間を神の人間救済の「実行役」として用いられる、という「三位一体論」的救済理解にいささかも抵触するものではない。

われわれは「出生の完全な停止」さえも、人間自身の努力と善意によっては成し得ないことを、しかもただ「キリスト信仰のみによって」そのことを認識するのである。


純粋に政治的な課題は、異なる意見や立場の人々と調整して妥協や取引、説得や戦略、そのほか合法的あらゆる手段に訴えて果たしていかなければならない。

「出生の完全な停止」もまた、その例に漏れないであろう。


以上大枠ではあるが、倫理的反出生主義のキリスト教的基礎づけを確認したところで次回はいよいよ、「出生の停止」の具体的な手順について提案したい。



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