寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)
会員番号:50
正会員
41歳のプロテスタント信徒で、埼玉県在住。
れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。
疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。
好きなキャラクターはタンタン。
以上の要点は、「出生の停止」が「苦しむ人間存在の終焉」のための、現時点において知られているところの「唯一確実な手段」である以上、他の代替案が見つかるまでこれを選択しないことはいかなる理由であれ、「苦しむ人間存在の継続」を正当化することになる、ということである。
倫理的反出生主義の公理とは「苦しむ人間存在に終止符を打つ」ことを至上命題とするものであり、同時にそれは「自殺」という不自然かつ凄惨な手段に訴えることなく、各個人の寿命の尽きるに任せる「自然死」および「出生の停止」という合理的かつ良心的手段によるものでなければならない。
加えて倫理的反出生主義の動機が、苦しむ人間存在への同胞としてなし得る「最大限の配慮」であることも論をまたない。
何度でも重ねて言わなければならないことは、倫理的反出生主義の主張、「すべての出生を停止せよ、しかる後に苦しむ人間同胞の救援に全力を挙げよ」とは、「人間の苦痛からの救済」をのみ至上命題とするものである、ということなのである。
かくして倫理的反出生主義は「人間性擁護」のチャンピョンとしての地位を自覚しなければならない。
さてこの「人間性」、すなわち「ヒューマニティ」の尊重を証明無用の公理として出発することもできるに違いないのであるが、実際のところ歴史的にはより包括的な別の公理によって支持されていることに留意することが堅牢なヒューマニティ擁護の実践に役立つことになるだろう。
すなわちここでは、人間の理性と良心の精華としての倫理的反出生主義の動機たる「人間性擁護」を強力に支持し得る「キリスト教信仰」に基づく「人間学」の素描を提示したいのである。
これがすなわち、「キリスト教的反出生主義」の試みである。
まず初めに、キリスト教信仰における「キリスト論」に基づく「人間学」こそが、歴史的には「人権」として獲得された「人間性の擁護」と「個人の尊厳」の基盤となった、ということだけを掲げておきたい。
人間性尊重の歴史は一朝には行かなかっただろう。
たとえば、そもそもなぜ人を殺してはならないのかを考えてみよう。
普段このように問うことの意義を実感できないのは、「法」(殺人の場合は刑法)による支配が私たちの日常生活を保護してくれているからである。
平和な日常性は理由付けをどこかで限界づけるだろう。
すなわち人を殺してはならないことを自明のこととするだろう。
人間存在、しかも「尊厳ある人間存在」を保護する「法による支配」の根源は、歴史的にはキリスト教信仰のルーツであるユダヤ教信仰の「契約神学」に見出すことが出来る(ユダヤ人の神がモーセを通してご自分の選びの民イスラエルに「契約律法」を与えられた神である、という彼ら独自の歴史的神認識に基づいている)。
一体なぜ人を殺してはならないのか。
創世記における初めの契約(ノア契約)によれば、『人間は神にかたどって創造されたからだ』とされている。
つまり神ご自身のために、人間は大事に扱われなければならない、というのである。
殺人禁止の根拠を法による慣例に丸投げすることもできるが、戦争のような極限状況や国家をはじめとする共同体崩壊の危機的状況下、すなわち無法無政府状態で、真に人間性を支え得る基盤を求めることができるとすれば、それは歴史的に見てユダヤ・キリスト信仰による他ない、というのが論者の考えである。
さて、ユダヤ・キリスト教は(モーセを預言者とするイスラム教も)人間存在をその創造主の肖像とみなすことによって「人間の尊厳」の堅牢な基礎を持つのであるが、キリスト教はそれだけではない。
「イエスの人間性」にあらゆる人間性の根源と個人の意味、その本質を見出すからである。
「歴史的人物としてのイエスがわれわれと全く同じひとりの人間であった」、という事実の内にキリスト信仰は人間救済の唯一にして確実な根拠を見出す。
人間存在の本質はこの「ひとりの人格」の内に隠されている。
「すべての人間が救済を必要とする存在」であることと、「かれこそがすべての人間の救済者」であることとを同時に認識する。かかるキリスト信仰においては、他の宗教のように一般的な「神」などというものを知ることは決してないだろう。
歴史的に存在したひとりのユダヤ人、教会によって礼拝の対象とされすべての人間の救済者と信じ続けられて来た「イエス・キリスト」、かれを神と知ることだけが許されている、と告白する。
もしもユダヤ教の神を知らねばならないとするならば、徹頭徹尾「人間」であるひとりのユダヤ人「イエス」を「仲保」としてのみ、知ることが許されているのである。
イエスがユダヤ人であること以外にわれわれとユダヤ教の神を結びつけるものはなにも存在しない。
強調しておきたいことは、キリスト信仰の要は徹頭徹尾、「このイエスこそ我らの主なる神」ということである。
イエスの内に真の人間と真の神を見出すことがキリスト信仰の核心である。
このイエスを仲保としてユダヤ人の神を信じ、かれご自身の霊である「聖霊」を信じるのである。
これが、キリスト教信仰を他のすべての神信仰から識別する「キリスト論」と「三位一体論」の素描である。
さて、ユダヤ・キリスト教は共に「人間性擁護」の歴史を形成してきたのであるが――今日の世界に見られる熱狂的な宗教原理主義やカルト集団が人間性を破壊していることについてはさらなるキリスト教の弁証が求められるし、なおかつ、ヘブライ・ヘレニズム的価値がグローバルスタンダードとなる以前に、儒教や仏教などのオリエント的諸価値が人間性保護の代役を務めていたことも敬意をもって受け止めるのであるが――、ユダヤ教の人間性擁護とキリスト教の人間性擁護の分水嶺とは、ともに「神の似姿」としての「人間」理解から出発しながら、その「救済」理解において決定的に異なるのである。
ユダヤ教の核心が「契約律法」にあることはすでに見た通りである。
神の選びの民としての自覚はただ子々孫々「契約律法」を遵守することによって獲得され、神の被造世界を神の律法に従って管理し、「神の栄光を表す」ことを至上命題とするのである。
ユダヤ教が必然的に「出生主義」であることは怪しむに足りない。
一方キリスト教信仰はどうか、人間存在が「救済」を必要とすること、しかもその「救済」とは、第1に「罪」から、第2に「死」から、そして第3に「すべての苦しみ」からなのである。
キリスト信仰に基礎を持たない人間性の擁護は第3番目の救済を待望しているが、キリスト信仰は人間性に敵対する3つの勢力からの救済を確信している。
しかも、圧倒的な権力とはおよそ対極にある、赤ん坊のイエス(クリスマスの出来事)、死刑囚のイエス(十字架の出来事)にその確約を見出すのである。
この「ひとりの人間イエス」に全人類と全被造物の救い主なる「神」を見出すキリスト信仰は、その「三位一体」的神の救済事業の完成を、歴史と物質的世界の「終末」に見出している。
終末が人間にとって恐るべき破滅となるのか、それとも神の人間救済を永遠に讃美礼拝する入り口となるのかは、ひとえに「イエス・キリストの真実」に対するわれわれ人間の応答にかかっている。
ここではこれ以上立ち入ることはしないが、人間の「応答責任」は、ユダヤ教と等しくキリスト教においても最大限尊重されており、共なる人間同胞に対する応答としての「倫理」と、主なる神への応答としての「信仰」が求められているのである。
かくして人間同胞に対する応答としての「倫理」的責任に、よりよい「終末」を迎える準備を促すこと、協力すること、献身することが従属するのである(因みにキリスト教会においては専ら「伝道・宣教」をこの務めに位置付けているが、ローマ帝国公認以来、原始教会に溢れていた「終末への希望」は著しく後退し、国家権力にも並ぶ支配権を確立した中世を経て、「伝道」と「終末への備え」がすっかり分離してしまった、というのが筆者の見立てである)。
「キリスト教的反出生主義」は、キリスト信仰が待ち望む「人間の救済」の内に「倫理的反出生主義」の実践の意義を見出し、人間を支配し、人間性に敵対する「あらゆる苦しみ」と「死」と「罪」からの救済を確信して、苦しむ人間同胞救援の情熱の源泉となることができるだろう。