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間忠雄|Tadao Hazama
脚本
その他
プロフィール
登録日: 2024年9月2日
記事 (15)
2026年8月21日 ∙ 5 分
【会員コラム】間忠雄(15)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために(15) —ABEMAの報道を見て(感想)—
反出生主義特集を扱う Abema News の報道を見て何ともやりきれない気持ちになってしまった。
劇作家の高間響氏、哲学者の小島和男氏、脳科学者の茂木健一郎氏をゲストに迎え、これまでの反出生主義特集の内容を踏まえた上で、反出生主義に対する疑問や批判が次々と小島氏に対してぶつけられていた。
討論の始めに反出生主義を、「人生には苦しみがあるので、生まれてこないほうがよく、産むべきではない。」という主張にまとめたのはよいとしても、「何がきっかけで?」、「ご自身の経験があって?」という司会者の質問に対する、「運よく自分が恵まれていることが(苦しんでいる人に)申し訳ない思いがある」という小島氏の応答を、「そのように感じない。」、「大学教授に何の意味もない。妙な個人的な考え。」などと批判する茂木氏の発言はそもそもの初めからしてよからぬ悪意を醸しだしていた。
——さらに「楽しいことが申し訳ない?」、と畳みかける男性俳優の驚きは、ある意味苦しむ人間存在に対する日本社会全体の無関心を象徴的に表しているようでさえあった。
司会者の質問は、反出生主義という思想に取り組む
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2026年6月23日 ∙ 8 分
【会員コラム】間忠雄(14)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために(14) —死もまたあってはならない—
「苦痛はあってはならない」。
けれども「生まれた以上苦痛は避けられない」のだから、「産むべきではない」。
「死もまたあってはならない」。
けれども「生まれた以上死は避けられない」のだから、「産むべきではない」。
「生まれた以上苦痛は避けられない」のだから生まれてしまった以上せめて、「自己と他者の苦痛を最小化する生き方」を追求することが、人生の価値ある目標となるのではないか。
いやむしろ、人間の倫理的共同の責任として、各個人においてのみならず、政治と社会の最優先の課題となるのではないか。
しかし、「苦痛」とは別にもうひとつの「死」についてはどうだろうか。
「死」に伴う「苦痛」の軽減はある程度可能であるとしても、「死」そのものを軽減することはできない。
苦痛の範疇にすべてを回収できない死の実体は人間の経験領域を超えた形而上学的意味を帯びている。
「死」についての明確な考え方を持つことはすでにひとつの信仰の領域である。
既成宗教の死生観を受け入れられない場合、ひとはおよそ以下の2通りの考え方の間を逡巡することになるのではないか。
① 死ねば生物個
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2026年5月7日 ∙ 7 分
【会員コラム】間忠雄(13)苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために —なぜキリスト教的反出生主義なのか—
無生殖主義の基本公理は明確で力強い。
それは、「苦痛はあってはならない」というものである。
この公理によれば、苦感能力を持つ存在を直接的にも間接的にも産み出す一切の行為が、道徳的に間違ったものとして認定されることになる。
しかもその上それは、公理としての自明性に疑いの余地がない。
これを否定するならば一切の倫理は解体されてしまうであろう。
無生殖主義がこの基本公理に忠実である限り、従来の反出生主義の立場を包括しつつ、かつ必然的にヴィーガニズムを並立することになる。
しかも、安楽死が苦痛を終わらせる手段として人々の選択判断を勝ち得たとき、無生殖主義はにわかに、個人の死ぬ権利を認める安楽死主義へと接近することにもなる。
ヴィーガニズムや安楽死主義が反出生主義とは独立したものでありながら、人々に訴えかけるための公理の自明性のゆえに、無生殖主義がこうした包括性や親和性をもつことは、人間の出生の停止を求める倫理的反出生主義にとって問題はないのであろうか。
安楽死主義への接近が示すのは、それが「人間の死」への誘惑に対する防御力において著しく不足していることである。
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